山口吉彦とアマゾンコレクション 前編

里山の少年はアマゾンを夢見る

「ここは八日町っていうんですけど。八日に市が立ってたんでしょうね。湯田川街道の道沿い、人が行き交うところで。湯田川は有名な温泉地なので、湯治客とか観光客とか。バスも走っていて、家のまえにバス停がありました」。

鶴ケ岡城から湯田川温泉へと伸びる湯田川街道は、冬になると材木などを乗せた馬橇(ばそり)が通り、押し固められた轍(わだち)はつるつると滑ったそう。「私やこの辺の悪がきはみんなそれにぶらさがってましたね(笑)。スケートのブレードみたいなのがありまして、それをズック靴につけて」。

その道を南の方へ30分ほど歩くと“こうじやま”があった。山口さんを昆虫少年に育てた里山である。夏は早朝からカブトムシやクワガタムシ捕り、春には山菜、秋にはきのこに栗拾いと駆け回った。

「幼稚園は中退したんです。幼稚園の先生が母と会って、お宅の息子さん最近全然来ないんですけど、どこか体悪いんですか?なんて聞いて。毎日家を出て、ただいまって帰ってきてたから、母にしてみれば、えーっ、何してたの?って。いやぁ、(1)ザリガニしめ(笑)。茹でて味噌汁にして。美味しかったですよ」。

空かせていたのはお腹だけではなかった。活字を求めた山口少年は図書委員となる。そこで出会ったのが、アマゾンへの冒険を描いた(2)一冊の児童書だった。「それを読んですごく感動して。よし、アマゾンに行こう。アマゾンに行ったら、巨大なカブトムシもいるし、きれいなモルフォ蝶も、昆虫の宝庫だと」。里山からかすかな道がアマゾンへ引かれた瞬間だった。

山岳部へ入部、都市で異文化に触れる

高校に入ると山岳部に入部した。アマゾンへ行くために体力と持久力をつけようとしたのである。「土日に山に行って、月曜日の授業までに戻って来れなくて、遅れて。リュックサック背負ったまま、職員室の前に座らせられて(笑)」。3年生になって周囲が部活動をやめていくなかでも山に登り続けた。海外のまだ見ぬ友人たちと(3)文通もはじめた 。その一方で、(4)早稲田大学地理学科、明治大学農学部、東京農業大学海外拓殖科に受験し合格。最もアマゾンに近いと見込んだ東京農大に入学することに。明大受験当日、昼食に入った安レストランで偶然隣り合わせた受験生が山好きで意気投合、その彼が後に探検家として知られる植村直己さんだったなんてことも。

さて山形から東京へと伸びた道は、北海道の阿寒岳・大雪山から北アルプス・中央アルプス・南アルプスまで、列島の山稜をなぞることになる。四年生になり、卒業に必要な単位も取得していた山口さんが約一ヶ月を費やす出来事があった。東京オリンピックである。「応募してみるといいよ」と下宿近くに住んでいた新聞記者から勧められたのが、バイリンガルの通訳ボランティア。英語のほか、スペイン語とフランス語を修めていた山口さんが応募するとぜひ来てくださいとの返事。現在の代々木公園には当時大きな選手村があり、アルジェリア、チュニジア、モロッコなどイスラム圏からの選手たちを食堂へ案内するなどして走り回った。ハラール料理なるものに触れて受けた「すごいカルチャーショック」。初めての異文化体験だった。

1ヶ月に及ぶボランティア活動のなかで、モロッコ選手団のコーチとして来日していた教授と親交を結んだ。聞けば知り合いがフランス大使館文化担当官だという。紹介状を書いてもらい、オリンピックが終了して彼らを送り出したあと、仏大使館の扉をノックした。「フランスに留学したいんです」。担当者は分厚いファイルを取り出し、農学部出身だからやはり農業関係の大学がよいでしょうと紹介されたのがボルドー大学だった。「ブドウの栽培と醸造学が学べますよ」。「ああ、それすごくいいですね」。アマゾンはいずこへ。道は大きく旋回し、東京からヨーロッパへと弧を描くこととなる。

欧州への旅立ち

横浜港から津軽海峡を渡り、ソビエト連邦ナホトカ港へ。そこからシベリア鉄道に乗ってオーストリアへ。チロル地方を抜けてスイスへ。交通機関を使うときもあれば、ヒッチハイクのときも。オーストリアとスイスにはそれぞれ約一週間滞在し、周辺地域にも足を延ばした。その滞在先を提供してくれたのは、なんと高校時代からのペンフレンド。数か月前に手紙を出してお願いしておいたのだった。

ヒッチハイクにしても、手紙にしても、必ずしも届かないという可能性を孕んでいる。他方で伝われば、それは力になる。もっと遠くに行ける。山口さんは迷うことなく親指を上げ、ペンを走らせた。未知なるもの同士が一時信頼し、場をともにした。小さな賭けと出会いが積み重なり、綱渡りのような歩みを進ませたことがわかる。それは一本の道のようにして辿ることができない。いくつもの交通が併走し、絡まったり、解きほぐれたりしながら綯(な)われる糸のようにみえてくる。今もやりとりの続くペンフレンドがいると山口さんはいう。

日本から三ヶ月をかけ、フランスに到着。フランス南西部で最も大きなボルドー大学は、文学部や法学部などは市内に、醸造学を学ぶ理学部などは数キロ離れた郊外にあった。諸外国からの学生に対応する食堂には多様な料理が並び、料金も一フランに満たない。学生寮では個室が与えられ、ベッドやシャワーも完備。正規の学生は学費も無料だった。

醸造学と栽培学の講義は専門性が高いもので、イタリアやチリからやってきた同窓生は二年間で修士論文を執筆し、実家が経営するワインセラーを継ぐといった使命感を背負っていた。実験と分析が中心の講義に関心を失いつつあった山口さんは周辺を観光したり、日本からフランスへの入学希望者を世話するなどしていた。そんななか、忘れかけていたアマゾンに再会を果たすことになる。

レヴィ=ストロースの衝撃

ある日、パリのセーヌ川沿いにある人類博物館を訪れた。展示されていたのがフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースのコレクションだったという。

「雷に打たれたようなものすごいインパクトを感じました。レヴィ=ストロースは、アマゾンで、西洋とまったく異なる世界観、宗教観、そういったものをもっている人たちがいるんだと非常に新鮮な驚きと感動を受けたんですね。それで資料を収集して本格的に調査を始めたんだそうです。それが私にも、ものすごい感動を与えてくれました」。

山口さんが留学した1965年は、レヴィ=ストロースが四巻からなる大作『神話論理』を執筆しているさなかにあたり、『野生の思考』(1962年)の発表以降、レヴィ=ストロースと構造主義を特集した雑誌や書籍が数多く出版され、あらたな知的潮流がうねりを起こしていた時期でもあった。それまでは人の主体的な行動が歴史をつくるとする立場やそれを支える人間中心主義的な考えに重きが置かれていたが、主体性に還元されないものや人の無意識的なはたらきがつくりだす構造に人びとの眼差しが注がれるようになったのだった。

そうした時代に山口さんも辞書を片手に『悲しき熱帯』(1955年)を読み、いくども人類博物館に足を運んだ。眠っていた思いがよみがえってくる。アマゾンに行きたい。農業を媒介するかたちで人類学を学ぼうと、リヨン大学農業地理学科への転学願を仏文化局に提出した。待っていた面接では、「自分の足でブラジルの大地に立って、先住民の人たちと生活をして、色んなことを調べたり、資料を集めたいんです」と山口さん。「人類博物館でそうした出会いがあったことを思えば、フランスに留学した甲斐があったのではないですか」と面接官。リヨン大への転学が決まった。

リヨン大在学時、人類学の授業を受けていた友人たちが北アフリカでのベルベル人の調査計画を立てていると聞き、トゥアレグ族の調査をしたいと考えた山口さんもまた北アフリカに赴いた。ヒッチハイクで砂漠の奥地を目指す道中、乗せてくれたトラックの運転手から追い剥ぎに遭い、ひとり砂漠に放り出され、三日後に偶然通ったキャラバンによって一命を取りとめた。帰路、ニューヨークからスペインを訪れていた若い夫婦の車に同乗し、何とかリヨンに辿りついた。

ニューヨークへ

運命の分かれ道はさりげなく置かれているものである。大学の掲示板に貼り出されていた一枚の紙に山口さんは足をとめた。国際学生証を持つ学生一名に限り、アムステルダムからニューヨークまで100ドルの特別航空便が利用できるとの情報だった。すぐさま応募して旅券を入手し、一路ニューヨークへ飛んだ。道は折り返し、ふたたびアマゾンに近づいてゆく。

「ニューヨークに来たら好きなだけ滞在して」といってくれていたのが、スペインで出会ったリチャードとメアリー夫婦だった。スペイン語を解せず困り果てていた二人を山口さんが助けるかたちでスペインの旅をともにした仲である。二人は快く迎え入れてくれ、山口さんは滞在中に皿洗いやウェイターで資金を貯めた。休みには高速バスのグレイハウンドを利用して北米各地もめぐった。リチャードのお母さんがとても面倒見のよい人で、グアテマラからの女子留学生を自宅に受け入れていたことから、彼女の家族に手紙を出してくれた。これがグアテマラへの旅につながり、マヤの遺跡を訪ねることができた。滞在は半年に及び、そこから南米大陸へと足を踏み入れることになった。

いささか駆け足ではあったが、おおよそこのような流れで、夢にみたアマゾンへ辿りつくこととなる。

「徒歩旅行」の織りなす世界

あらためてみると、山口さんの歩みはつくづく「徒歩旅行」だと思う。カーナビやルート検索などが一般化した今日と比較してみよう。現在地から目的地までの移動に際して瞬時に最短ルートが割り出されることで、私たちは限りなくロスを減らし速く目的地まで辿りつくことができる。それに対して山口さんの歩みは、目的地と直線で結ばれることなく、迂回につぐ迂回、蛇行につぐ蛇行を繰り返して進んでいるようにみえるだろう。このような移動と旅の違いについて、アバディーン大学で教鞭をとる人類学者ティム・インゴルドは「輸送」と「徒歩旅行」を引き合いにして次のように述べている。(5)

「輸送transport」は目的地思考の移動であり、ほぼ一本のラインを描く最短距離で目的地を結ぶ。そこで移動する人や物資はその基本的な性質が変化することがないよう運搬される。対して「徒歩旅行wayfaring」は歩みを進めながら、道に沿って成長するラインであり、一歩ごとに開けてくる世界と積極的に関わることでみずからが変化していく。「輸送」において人は動かされる対象で変化は起きない。「徒歩旅行」は、そのつど生成する世界に耳を澄ませ、肌で感じ、応答することで、世界を織りなしてゆく。ラインを綯い合わせてゆく。後者をしてインゴルドは、「地球に住まいする基本的なあり方」とする。

その意味で山口さんの歩みはまさしく「徒歩旅行」といえよう。ザリガニしめから砂漠の果てまで、そのつど開かれる世界に親密に関わり―ときにヒッチハイクや文通を通じていくつものラインを綯い合わせながら、アマゾンへの夢というラインに沿ってそれを成長させ、「地球に住まう」ことをしてきたのだから。その足どりが行き当たりばったりにしかみえないのは、私たちがそれだけ直線の上を歩いているからかもしれない。おそらくそのはざまにみえてくるものが重要なのだと思う―そこに開けてくる世界は豊かだろうか。山口さんの歩みは問いかけている。

成瀬正憲


(1)ザリガニを捕まえること。山形県庄内地方では川で小魚を捕ることを「ざっこしめ」と呼ぶ。
(2)書名が不明だが、中山光義著、小野田俊雄絵『大アマゾンの秘境:「ハーンドンのアマゾン渓谷の探検」による』(東西文明社、一九五七年)と思われる。同著は「少年少女のための世界科学探検文庫」としてシリーズ化されており、他にデイヴィッド・リビングストンの「探検記」をもとにした小西茂木著、帆足次郎絵『アフリカ大密林行』が同年出版されている。山口さんはリビングストンのアフリカ探検記にも関心をもったことや子ども向けの本だったと述べていることから、このシリーズとみてよいかと思う。
(3)1950年代当時は様々な文通団体が活動しており、中学校や高校のクラブ活動として文通が行なわれていた。最も大きなものが財団法人日本郵便友の会協会の主催する「郵便友の会」(現在の青少年ペンフレンドクラブ)であり、山口さんはこれを通じて海外にペンフレンドを得て文通をはじめたようだ。
(4)早稲田大学は現在の教育学部社会科地理歴史専修、東京農業大学は現在の国際農業開発学科。
(5)ティム・インゴルド著、工藤晋訳『ラインズ 線の文化史』(左右社、2014)。


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