山口吉彦とアマゾンコレクション 後編



帰国、鶴岡での歩み

吉彦さんの当時の調査は自費が基本だったが、先住民たちと物品交換するための費用やチャーター料も含めた旅費は高くつき、お金が続かなかった。ベレンに帰り、また出直すことを繰り返した。季節を通じて調査できれば理想だったが、ひとつの地域に滞在したのは計1ヶ月ほど。帰宅すると考子さんは吉彦さんの話に熱心に耳を傾け、収集した品々をみて喜んでくれたそうだ。そのような理解者が他にいるだろうか。考子さんがいなければ成り立ちえないことだった。

考子さんの任期である5年目を迎えたころ、考彦さんは4歳になっていた。前年から収集した資料の整理を行い、輸送のための書類を作成し、剥製や昆虫標本も含めた数えきれない資料を2m四方の木箱に梱包して船便で送った。里山からアマゾンに辿りついた道は、たくさんの出会いをモノへと結晶させ、環を描くように故郷に舞い戻ることとなった。

実家へ戻るなり、横浜から2tトラックで運ばれたたくさんの木箱が届いた。庭をつぶして自宅を改築し、収蔵庫を建てた。資料を収めることができると、ベレン日本人学校でジャングルから持ち帰った昆虫の標本や先住民の手仕事をみせた際に生徒たちが芽を輝かせたことを思い出し、近所の子どもたちを呼んだ。話題にならないわけがない。近隣の小学校がクラスで見学に訪れるようになる。あれよあれよという間に新聞社の取材や、講演の依頼が舞い込むようになり、鶴岡市の致道博物館で第2回アマゾン展が開催される運びとなった。

翌1981年に次男の光彦さんが産まれ、収蔵庫を「アマゾン資料館」としてオープン。1階で語学教室を開くと、海の外の文化を知りたい地元の住民と、海を渡って日本にやってきた訪問者が立ち寄り、交流する場となっていった。よく訪れる人のなかからグループのようなものができ、草の根の国際交流がはじまった。そこから「庄内国際青年祭」などの大きな催しが立ち上がることとなった。

帰国後の歩みも、やはり「徒歩旅行」なのだと思う。リマやベレンで教育に携わった経験が独自に展開されていったのが伺えるし、いずれも何らかの命令や指示、計画にもとづくものではなく、自発性がもとになっているからだ。例えば語学教室から地方の大きな国際交流イベントとなった庄内国際青年祭までは予め一本線で引かれていたことでなく、その都度その場に起こる出来事に対応していったら、そこに至ったというのが実情なのだろう。旅における振る舞いを、定住しながら展開したらそうなったといえるだろうか。草の根交流としてはじまるのも自発性にもとづくからこそ。「徒歩旅行者たち」がアマゾン資料館には集っていた。

この間考子さんは高校で英語などを教え、非常勤講師として働き、吉彦さんも忙しくも充実した日々を送ったという。その後1990年代に入ると朝日村(2005年に鶴岡市に合併)の村長さんがアマゾンの資料をいたく気に入ったことから「アマゾン自然館」が建設されることになった。ここで動植物や昆虫の標本、剥製などが展示されることに。1994年には鶴岡市が草の根の国際交流と国際理解の拠点として「出羽庄内国際村」を開設。同施設に民族資料約10,000点を収蔵・展示する「アマゾン民族館」が開館した。吉彦さんはみずからのコレクションを両館に貸し出すとともに館長に就任。その後アマゾンほか世界各地を訪れて、様々な資料を収集していくこととなった。両館ともオープン当時は長蛇の列をつくったというが、時代の推移と訪問者の減少及び行革の影響もあって、2014年に惜しまれつつも閉館することとなる。

アマゾンコレクションの思い


蛇行するアマゾン 撮影=鴻池安志


吉彦さんが最後にアマゾンを訪れた2011年まで、およそ40年にわたって35前後の先住民の地域を訪れ、収集してきた約20,000点の資料が、山口吉彦アマゾンコレクションである。

「最初にアマゾン先住民の土地に足を踏み入れたのは、ペルー領のウィトト族で、太鼓一点でした。たった一点の、ひとつの雫みたいなもの。それがだんだんと、アマゾンの細い流れのようになって。いくつかの支流を集めて、ものすごい川幅になって。もっともっと多くの支流が加わって、河口になれば―いちばん幅の広いところで350km、東京‐名古屋間ぐらいの大河になって、大西洋にそそぐ。そういうふうに、20,000点近くまでなったってことは、驚きであり、考子も喜んでくれた、思い出のある品々なんです」。

2017年、最愛の考子さんが他界する。その遺志を継ぎ東京で働いていた考彦さんが帰省。代表理事を考彦さんが務めるかたちで、2019年に一般社団法人アマゾン資料館が設立された。市の収蔵庫に長らく保管されていたコレクションは移転を余儀なくされ、膨大な物量は100人超のボランティアの力を借りて元のアマゾン資料館に戻った。民家を改築した同資料館は空調設備などが完備されていないため、コレクションにとっては必ずしも望ましい環境といえず、臨時的な保管とされている。

アマゾン自然館・アマゾン民族館というこれまでの枠組みはなくなったものの、コレクションの有する価値はいまだ色褪せてはいない。それどころか、今だからこそ求められていることは、2019年に新木場のCASICAで株式会社マザーディクショナリーが主催し開催された合同展示会&マーケットTRACING THE ROOTSにおけるアマゾンコレクションの展示とトークイベントの大きな反響や、今回のATELIER MUJI GINZAの「野生の手仕事と知恵 展」における高い関心とレスポンスから伺うことができる。

何を求めて人はそこに足を運んだのだろう。吉彦さんの言葉がふと思い出された。

「未知の世界をみて、自分の足で踏みしめて、そこに住んでいる先住民と同じように生活してみたい。彼らの生き方を学びたかったから。たしかに素朴で、機械文明とかそういうものとまるきり違うし、便利さともほど遠いものかもしれないけれど。アマゾンに行くたびに、わぁって、あたらしい発見と感動があったの。」

森に暮らし、森と生きる、そのような生き方を学ぶこと。収集品を通じて、あるいはそれらの向こうに、吉彦さんが求めていたものはそれだったのだろう。ザリガニを食材とした戦後の生活から、東京オリンピックに象徴される復興、そして高度経済成長という時代に生きてきた自分、変わってゆく社会のなかで、「徒歩旅行」だからこそ辿りつけるもの、「裸の生」とでも呼べるようなものを、吉彦さんは求め続けていたのかもしれない。それは高度に情報化し、アルゴリズムで生活のありようが提示される今日、アマゾンコレクションに注がれる眼差しと響き合うものがあるのではないだろうか。

「毎年、日本の四国くらいの面積のアマゾンの森林が焼かれて、更地になってます。インディオの、心の糧であり、すべての中心であり、世界全体の、大切な酸素の供給源でもある、アマゾンの森に、思いを馳せてほしい。そのきっかけに、何らかのかたちで私のコレクションが役に立てば嬉しいと思います。」

山口吉彦アマゾンコレクションが、明確な理念や方針のもとに置かれているというよりむしろ粒揃いの断片が緩やかに組み合わさったものだからこそ、それは多様な可能性に開かれたものだといえる。近年の展示はその可能性を示唆していよう。これから山口吉彦アマゾンコレクションとアマゾン資料館にどのような展開が起きるのだろうか。私は目を離すことができない。

成瀬正憲



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